Share
「幸せとは何か?」アドラー・フランクル・カミュの思想を比較する
「幸せになりたい」と思うことはあっても、「そもそも幸せとは何だろう?」と聞かれると、意外とうまく答えられないものです。好きな仕事をすること、お金に余裕があること、誰かに愛されること、自由な時間を持つこと。どれも幸せにつながりそうですが、それだけで本当に「幸せな人生」と言えるのでしょうか。
欲しかったものを手に入れても、しばらくすると次のものが欲しくなることがあります。周囲から見れば順調なのに、「自分は何のために生きているのだろう」と感じることもあります。
では、私たちは何を「幸せ」と呼べばいいのでしょうか?
この問いを考えるうえで興味深いのが、アルフレッド・アドラー、ヴィクトール・フランクル、アルベール・カミュという3人です。3人は同じ時代、同じ分野の思想家ではなく、幸福について同じ答えを出したわけでもありません。
それでも、アドラーの共同体感覚、フランクルの人生の意味、カミュの不条理という思想を並べると、「幸せ=楽しいことが多い人生」では捉えきれない幸福の姿が見えてきます。
この記事では、仕事、人間関係、成功、人生の意味、苦しみなど身近な問題を通して、アドラー・フランクル・カミュから「幸せとは何か」を考えていきます。
そもそも、私たちはなぜ「幸せになりたい」と思うのか?
私たちは日常のさまざまな選択を、「幸せになるため」に行っています。良い仕事に就きたい、お金を稼ぎたい、恋人がほしい、結婚したい、自由になりたい。目的は違っていても、その先には「今より幸せになりたい」という願いがあることが少なくありません。
ところが、ここには一つ難しい問題があります。「何を手に入れれば幸せなのか」という基準自体が、必ずしも自分で決めたものとは限らないからです。
高収入なら幸せ、結婚すれば幸せ、好きな仕事ができれば幸せ、自由なら幸せ。社会や周囲から示される「幸せの形」を追いかけているうちに、本当に自分が求めているものが分からなくなることがあります。
だから哲学から幸福を考えるときは、「どうすれば幸せになれる?」だけではなく、「自分は何を幸せだと思っている?」「なぜそれを幸せだと思う?」という問いから始める必要があります。
アドラー・フランクル・カミュは「幸福」をどう考える?
アドラー――他者とのつながりの中で生きる
アルフレッド・アドラーは、オーストリアの医師・精神科医で、個人心理学を築いた人物です。アドラーの思想では、劣等感、人生の課題、勇気、共同体感覚などが重要なテーマになります。
人間は孤立した存在ではなく、他者との関係の中で生きています。そのため、アドラーから幸福を考えるときも、「自分一人が満足しているか」だけでは十分ではありません。
自分には居場所がある。他者を仲間として感じられる。そして、自分も共同体の一員として役に立てる。こうした方向から、アドラーの思想における幸福を考えることができます。
ただし、「人の役に立たなければ価値がない」という意味ではありません。他者からの評価を得るために貢献するのではなく、他者と協力しながら人生へ参加していくことが重要です。
フランクル――幸福そのものを追いかけない
ヴィクトール・フランクルは、オーストリアの精神科医・神経科医で、ロゴセラピーを発展させた人物です。フランクルの思想では、「意味への意志」や「人生の意味」が中心的なテーマになります。
フランクルから幸福を考えるときに重要なのは、幸福を人生の直接的な目標にしすぎないという視点です。
「幸せにならなければ」と幸福そのものばかりを追いかけると、かえって「まだ幸せではない自分」に意識が向きやすくなります。むしろ仕事、愛する人、経験、価値など、自分を超えた何かへ向かって生きる中で、幸福が結果として伴うことがあると考えます。
つまりフランクルから見ると、「どうすれば幸せになれる?」よりも、「今の自分には、どんな意味ある行動が可能だろう?」という問いが重要になってきます。
カミュ――答えがなくても、生を生きる
アルベール・カミュは、フランス領アルジェリアに生まれた作家・思想家です。『異邦人』『ペスト』『シーシュポスの神話』などで知られています。
カミュの思想を理解するうえで重要なのが「不条理」です。人間は世界に意味や秩序を求めますが、世界が私たちの求める最終的な答えを保証してくれるとは限りません。この人間の要求と世界とのずれに、不条理が生まれます。
それでもカミュは、単純に「人生には意味がない。だから何をしても無駄だ」と考えたわけではありません。最終的な答えが保証されていない世界で、それでも目をそらさずに生きることを考えます。
カミュから幸福を考えると、「人生に完璧な意味が見つかれば幸せになれる」という前提そのものが揺さぶられます。
3人に共通するのは「幸福を外側だけに求めない」こと
アドラー・フランクル・カミュの思想は大きく異なります。それでも現代の私たちが3人を幸福というテーマから読むと、興味深い共通点があります。
それは、幸せを「何か一つを手に入れれば完成する状態」として考えないことです。アドラーなら、地位や評価よりも他者との関係や共同体への参加が問題になります。フランクルなら、幸福を直接追うより意味あるものへ向かいます。カミュなら、人生の最終的な答えが与えられることを幸福の条件にしません。
3人を並べると、幸福は「何を持っているか」だけではなく、「人生とどのような関係を結んでいるか」という問題として見えてきます。

アドラーの幸福① 「人より上」になっても幸せとは限らない
私たちは幸福を比較で考えることがあります。「友人より収入が高い」「同年代より早く結婚した」「あの人より成功している」。比較で自分が上にいると、一時的な安心を得られることがあります。
しかし、比較を幸福の基準にすると、自分より上の人が現れるたびに不安になります。上に立ち続けなければ幸せでいられないからです。
アドラーは劣等感を人間にとって自然なものとして捉え、それ自体を単純に悪いものとは考えません。問題になるのは、他者との競争や優越によってしか自分の価値を感じられなくなることです。
幸福を「人より上にいること」から切り離せるか。これは、アドラーから幸福を考えるときの重要な問いになります。
アドラーの幸福② 「自分の居場所がある」という感覚
お金や地位があっても、「自分はここにいていいのだろうか」と感じていれば、幸福を感じにくいことがあります。反対に、派手な成功がなくても、自分を受け入れてくれる人や、自分が参加できる場所があることで安心できることがあります。
アドラーの共同体感覚から考えると、幸福は孤立した個人の満足だけではありません。他者を敵ではなく仲間として感じ、自分も共同体の一部であると感じられることが重要になります。
「人より優れているから、ここにいていい」のではなく、「自分もこの世界の一員として参加できる」と感じられること。
競争だけでは得られない幸福を、アドラーは考えるきっかけを与えてくれます。
アドラーの幸福③ 「貢献」を自己犠牲にしない
アドラーについて学ぶと、「他者に貢献することが幸福なのだ」と理解したくなることがあります。しかし、ここには注意が必要です。
他人のために何でも我慢することや、自分を犠牲にし続けることを貢献と考えてしまうと、アドラーの思想とは違う方向へ進んでしまいます。他者との協力は、自分を消して相手に従うことではありません。
「自分には何ができるだろう」と考えることと、「役に立たなければ自分には価値がない」と考えることは違います。
幸福のために貢献しなければならないのではなく、自分も他者も共同体の一員として尊重しながら参加することが大切です。
フランクルの幸福① 「幸せになろう」としすぎると苦しくなる
「幸せになりたい」という願いは自然です。しかし、その願いが「私は今、幸せだろうか?」という絶え間ない自己チェックに変わると、かえって苦しくなることがあります。
SNSで楽しそうな人を見て、自分と比較する。「もっと充実していなければ」「もっと人生を楽しめていなければ」と考える。その結果、幸福そのものが新しい義務になります。
フランクルから考えると、幸福は直接つかもうとする対象というより、意味あるものへ向かう中で結果として現れることがあります。
「私は幸せ?」と自分を見続けるより、「今、自分は何へ向かいたい?」と問いを変えてみる。
この視点は、幸福を追いかけすぎて疲れている現代人にとって重要です。
フランクルの幸福② 人生の意味は「大きな夢」だけではない
「人生には意味が必要」と聞くと、世界を変えるような仕事や壮大な夢を見つけなければならないように感じます。しかし、フランクルの意味は、必ずしも一生を貫く大きな使命だけを指すわけではありません。
具体的な状況によって、意味の可能性は変わります。仕事をすること、誰かを愛すること、何かを経験すること。そして避けられない苦しみに直面した場合には、その状況にどのような態度を取るかという可能性もあります。
「人生全体の意味が分からない」ことと、「今この瞬間に意味あることが何もない」ことは同じではありません。
人生の答えを一度に見つけようとせず、目の前の状況へ問いを小さくする。そこからフランクルの幸福観も見えてきます。
フランクルの幸福③ 苦しみに意味があれば幸せなのか?
フランクルを語るとき、とても注意したいのが「苦しみ」の扱いです。「苦しみには意味があるのだから我慢すべきだ」という考え方は、フランクルの思想を危険な形で単純化してしまいます。
避けられる苦しみなら、環境を変えたり、問題を解決したり、誰かに助けを求めたりすることが大切です。フランクルが態度による意味を考えたのは、あくまで避けることのできない苦しみに直面した場合です。
苦しむこと自体が幸福なのでも、苦しみそのものに自動的な価値があるのでもありません。
幸福を「どんな状況でも前向きでいなければならない」という義務に変えないことは、フランクルを日常へ取り入れるうえで非常に大切です。
カミュの幸福① 「人生に意味がない」と「人生に価値がない」は違う
カミュについて、「人生には意味がないと考えた思想家」と説明されることがあります。しかし、これはかなり単純化されています。
カミュが考えた不条理は、人間が意味や明晰さを求めることと、それに対して世界が最終的な答えを保証してくれないこととの関係です。そこから「だから人生には何の価値もない」と結論づけるわけではありません。
夕暮れを見ること、誰かと話すこと、音楽を聴くこと、海を眺めること。こうした経験は永遠ではありませんが、永遠ではないからといって無価値になるわけでもありません。
「永遠の意味が保証されていないこと」と、「今生きている時間に価値がないこと」は別です。
この区別が、カミュから幸福を考える大切な入口になります。
カミュの幸福② シーシュポスはなぜ重要なのか?
カミュの『シーシュポスの神話』では、巨大な岩を山頂まで押し上げても、再び岩が落ち、また押し上げなければならないシーシュポスが描かれます。
終わりのない繰り返しだけを見ると、幸福とは正反対の人生に思えます。しかしカミュが注目するのは、自分の運命を明晰に知るシーシュポスです。世界から最終的な救済や答えを与えられなくても、自分が置かれた生を意識して生きることが問題になります。
カミュが考える幸福は、「苦しみがなくなること」や「人生の謎がすべて解けること」だけではありません。
ただし、これは現実の苦しい職場や人間関係に「黙って耐えれば幸せになれる」と当てはめるべきものではありません。変えられる状況なら、変えることや離れることも私たちには可能です。
カミュの幸福③ 「いつか幸せになる」ために今を失わない
「この仕事を頑張れば、いつか幸せになれる」「もっとお金が貯まったら人生を楽しもう」「目標を達成したら、ようやく自分を認めよう」。未来の幸福を目標にすることは、私たちを前へ進ませる力にもなります。
しかし、幸福を未来にだけ置くと、現在は永遠に「幸せになるための準備期間」になってしまいます。目標を達成すれば、また次の目標が現れることもあります。
カミュの思想からは、最終的な完成や救済だけに人生の価値を預けず、有限な現在を生きるという視点を受け取ることができます。
人生は「完成してから価値が生まれる作品」ではなく、未完成のまま生きられている時間そのものでもあります。
3人の幸福観を比較すると、何が違う?
ここまでを整理すると、アドラー・フランクル・カミュは幸福について異なる方向を向いていることが分かります。
アドラーからは、他者との関係や共同体への参加が見えてきます。「自分だけが満たされればよい」のではなく、他者を仲間として感じ、自分も人生へ参加できているかが重要になります。
フランクルからは、幸福を直接目的にすることから距離を取り、意味ある仕事、人、経験、価値へ向かうことが見えてきます。幸福は「捕まえるもの」というより、意味ある生を生きる中で伴うことがあります。
カミュからは、人生の最終的な意味や幸福の完成形が保証されていなくても、それでも現在の生を生きられるかという問いが現れます。
アドラーは「誰と、どう生きるか」、フランクルは「何のために、何へ向かうか」、カミュは「答えがなくても、この生を生きられるか」と問いかける。
この違いを押さえると、3人の幸福観が分かりやすくなります。
「お金があれば幸せになれる?」3人ならどう考える?
お金は幸福と無関係ではありません。生活の安全を確保したり、選択肢を増やしたり、苦しい環境から離れたりするために、経済的な余裕は現実的に重要です。そのため「お金がなくても心が豊かなら幸せ」と単純に精神論へ変えるべきではありません。
ただし、お金だけで幸福のすべてを説明できるわけでもありません。アドラーからは、お金による優越や比較だけで自分の価値を測っていないかを考えられます。フランクルからは、お金を何のために使い、何へ向かうのかという意味の問題が見えてきます。
カミュからは、「十分なお金を手に入れれば人生の最終的な不安や意味の問題まで解決するのか」と問い直すことができます。
お金は人生の条件を大きく変えられますが、それだけで「どう生きるか」という問いが消えるわけではありません。
「好きな仕事ができれば幸せ?」3人ならどう考える?
好きな仕事ができることは、大きな幸福につながる場合があります。しかし、「好きな仕事をしていない自分は不幸だ」と考えると、仕事が新しい幸福の義務になることがあります。
アドラーからは、仕事を人生の課題の一つとして捉え、自分がどのように参加し、他者と協力しているかを考えられます。フランクルからは、仕事を通して何を実現しようとしているのかという意味へ目を向けられます。
カミュからは、仕事に「人生を完全に正当化してくれる究極の意味」を求めすぎていないかを考えることができます。
仕事は幸福の大切な一部になり得ますが、仕事だけに人生全体の幸福を背負わせる必要はありません。
「愛されれば幸せになれる?」3人ならどう考える?
誰かに愛されることは、人生の大きな喜びになり得ます。しかし、「誰かに愛されなければ自分には価値がない」となると、幸福が相手の反応だけに依存してしまいます。
アドラーからは、愛を人生の重要な課題として捉えながら、相手に自分の価値をすべて決めてもらわない関係を考えられます。フランクルにとっても、愛は他者のかけがえのなさへ向かう重要な可能性です。
カミュからは、愛する人が人生の最終的な意味をすべて保証してくれるわけではないとしても、その関係や時間を生きる価値は失われないと考えることができます。
幸福な関係とは、「この人がいなければ自分には価値がない」という関係ではなく、互いの存在を大切にしながらともに生きる関係なのかもしれません。
「自由になれば幸せ?」3人ならどう考える?
会社を辞める、お金を貯める、嫌な人間関係から離れる。外側の制約を減らすことによって、人生が大きく楽になることはあります。その意味で自由は幸福にとって重要です。
しかし、選択肢が増えれば自動的に幸福になるとは限りません。アドラーからは、自由になったあと「他者とどう生きるか」という問題が残ります。フランクルからは、「その自由を何のために使うのか」という問いが生まれます。
そしてカミュからは、自由になっても人生の最終的な答えが自動的に与えられるわけではないことが見えてきます。
「何から自由になるか」だけではなく、「自由になった自分は何へ向かうのか」まで考えることで、自由と幸福の関係が見えてきます。
「人生に意味がない」と感じたら、不幸なのか?
人生の意味が分からなくなると、「自分は不幸なのではないか」と感じることがあります。しかし、この問いではフランクルとカミュの違いが特に興味深くなります。
フランクルは、人生には具体的な状況ごとに意味の可能性があり、人間はそれを発見し応答していく存在だと考えます。「人生全体の意味」を一度に説明できなくても、今この状況で何を実現できるかを問うことができます。
一方カミュは、世界が私たちの求める最終的な意味を保証してくれるとは限らないというところから出発します。そして、その不条理を都合のよい答えで解消せず、それでも生きることを考えます。
フランクルは「この状況にどんな意味の可能性がある?」と問い、カミュは「最終的な意味が保証されなくても生きられる?」と問いかける。
答えは違いますが、どちらも「人生全体の答えを今すぐ手に入れなければ生きられない」という焦りから距離を取るヒントになります。
「幸せにならなければ」という考えが、私たちを不幸にすることもある
現代では、幸せそのものが一つの成功基準になっています。好きな仕事をして、良い恋愛をして、旅行をして、趣味を楽しみ、毎日充実している。SNSでは、そんな「幸せそうな人生」が大量に目に入ります。
すると、つらい日があるだけで「自分の人生は間違っているのではないか」と感じることがあります。何もしたくない休日や、目的が分からない時期まで「幸福ではない失敗した時間」のように見えてしまいます。
しかし、人生には退屈も、迷いも、悲しみもあります。幸福を「常に楽しく、満たされている状態」と定義すれば、ほとんどの人生は不幸になってしまいます。
幸せな人生とは、「不幸な瞬間が一度もない人生」ではありません。
アドラー・フランクル・カミュを読むことで、幸福をもう少し広いものとして考えられるようになります。
SNS時代の「幸せ」は誰が決めている?
SNSでは、他人の幸福が見えるようになりました。結婚、旅行、仕事、収入、家、ファッション、友人関係など、「幸せそうな人生」の断片を毎日見ることができます。
問題は、他人の幸福を見ているうちに、それを自分の幸福の基準として使い始めることです。「みんな楽しそうなのに、自分だけ何もない」と感じれば、自分の人生に実際にあるものまで見えにくくなります。
アドラーからは、他人との比較や承認だけを幸福の基準にしていないかを考えられます。フランクルからは、他人の人生を見ることから離れ、今の自分が向かえる意味へ視線を戻せます。カミュからは、「完璧に意味があり、完成された幸福な人生」という物語そのものを疑うことができます。
「幸せそうに見えること」と「幸せに生きていること」は、同じではありません。
普通の毎日でも幸せになれる?
朝起きて、仕事へ行き、帰宅して、ご飯を食べて、眠る。特別な出来事がない日々が続くと、「こんな人生でいいのだろうか」と感じることがあります。
アドラーからは、その日常の中にある仕事や人との関係、共同体への参加を見ることができます。フランクルからは、何気ない一日にも具体的な意味の可能性があると考えられます。
カミュからは、人生がどこかで「完成」しなければ現在に価値がない、という前提を問い直すことができます。繰り返しや有限性があるからといって、経験そのものが無価値になるわけではありません。
幸福は、人生に特別な出来事が起こったときだけ始まるものではないのかもしれません。
苦しいときにも「幸せ」を考えるべき?
つらい状況にいる人へ「考え方を変えれば幸せになれる」と言うのは危険です。苦しい職場、傷つけられる人間関係、経済的な困難など、考え方だけでは解決できない問題があります。
哲学は、現実の問題を消す魔法ではありません。変えられる状況なら変えること、離れられるなら離れること、必要なら他者の助けを借りることが大切です。
幸福について考えることを、「どんな状況でも幸せだと思わなければならない」という義務にしてはいけません。
アドラー、フランクル、カミュから学べるのは、苦しみを美化することではなく、現実を見ながら「その中で自分はどう生きるか」という問いを手放さないことです。
幸せは「感情」なのか「生き方」なのか?
幸せという言葉には、「今日は幸せだ」という感情と、「幸せな人生を送っている」という人生全体への評価が混ざっています。この二つを分けると、幸福について考えやすくなります。
楽しい気分は変化します。どれだけ幸福な人生でも、悲しい日や不安な日はあります。反対に、人生に大きな悩みがあっても、一瞬の喜びを感じることはあります。
3人の思想を比較すると、幸福を一時的な気分だけではなく、生き方との関係から考える視点が見えてきます。
「いつも幸せを感じているか」だけではなく、「自分はどんな関係をつくり、何へ向かい、この人生とどう向き合っているか」。
幸福について考える問いを、このように広げることができます。
アドラー・フランクル・カミュから考える「幸福の3つの方向」
アドラー――「つながる」幸福
他者を競争相手としてだけ見るのではなく、ともに生きる仲間として考える。自分にも居場所があり、自分なりの形で人生へ参加していく。アドラーからは、そんな「つながる幸福」が見えてきます。
フランクル――「向かう」幸福
自分が幸せかどうかだけを見続けるのではなく、仕事、人、経験、価値など、自分を超えた何かへ向かう。その過程で幸福が伴うことがある。フランクルからは、「向かう幸福」を考えることができます。
カミュ――「生きる」幸福
人生に最終的な答えが保証されていなくても、現在の生を無価値にしない。不条理を消してしまうのではなく、それを明晰に意識しながら生きる。カミュからは、「生きることそのものとどう向き合うか」という幸福が見えてきます。
「つながる」「向かう」「生きる」。3人を一緒に読むと、幸福を一つの正解ではなく、複数の方向から考えられるようになります。
幸せについて考えるための9つの問い
1.「これがあれば幸せ」と思っているものは何?
お金、恋愛、結婚、仕事、自由、承認など、自分が幸福の条件にしているものを書き出してみます。それを手に入れたあと、本当にすべての悩みがなくなるのかも考えてみましょう。
2.その「幸せの形」は、本当に自分が望んでいる?
世間や家族、SNSから「これが幸せ」と教えられたものを、そのまま自分の幸福として使っていないかを見直します。
3.人より上であることを、幸福の条件にしていない?
収入、容姿、仕事、結婚など、比較によってしか幸福を確認できなくなっていないかを考えます。
4.自分には「ここにいていい」と感じられる場所がある?
大きな成功だけではなく、人とのつながりや、自分が参加できている場所にも目を向けてみます。
5.「幸せかどうか」ばかり確認していない?
自分の幸福度を測り続けるのではなく、今向かいたい人、仕事、経験、価値は何かを考えてみます。
6.人生全体の意味を、一度に見つけようとしていない?
「何のために生きるのか」が分からなくても、今日できる意味あることまで分からないとは限りません。問いを今の状況まで小さくしてみます。
7.「いつか幸せになる」ために、現在を全部後回しにしていない?
目標は大切ですが、未来だけに幸福を置くと、現在がずっと準備期間になります。今日すでに経験できるものにも目を向けてみます。
8.つらいときまで「幸せでいなければ」と思っていない?
悲しいとき、疲れているとき、迷っているときがあるのは自然です。幸福を新しい義務にしていないか確認します。
9.誰にも見せなくていい人生なら、何を大切にしたい?
人から「幸せそう」と思われる人生ではなく、自分が実際に生きる人生へ問いを戻してみます。
「どうすれば幸せになれる?」だけではなく、「自分は何を幸せと呼びたい?」
幸福について考えるとき、何度でも戻ってきたい問いです。
今の自分には、アドラー・フランクル・カミュの誰が合う?
3人のうち誰が正しいということではありません。今抱えている悩みによって、響く思想は変わります。
他人と比較してしまう、人から認められないと自信を失う、人間関係に疲れている、自分の居場所がないと感じる。そんなときは、アドラーの劣等感や共同体感覚から幸福を考えると入りやすいでしょう。
何のために生きているのか分からない、仕事に意味を感じられない、幸せになろうと頑張っているのに虚しい。そんなときは、フランクルの「意味への意志」や人生の意味が重要なヒントになります。
毎日同じことの繰り返しに感じる、人生に最終的な意味があるのか分からない、正解のない人生をどう生きればいいのか考えたい。そんなときは、カミュの不条理や『シーシュポスの神話』から考えてみるとよいでしょう。
アドラーは「他者とどう生きるか」、フランクルは「何へ向かって生きるか」、カミュは「答えがなくてもどう生きるか」。
幸福について悩んだとき、3人はそれぞれ違う問いを私たちに返してくれます。
3人を一緒に読むと「幸せ」の見え方が変わる
幸福について考えるとき、私たちはつい一つの答えを探してしまいます。「お金があれば幸せ」「好きなことをすれば幸せ」「人の役に立てば幸せ」といった答えです。
しかし、アドラー・フランクル・カミュを一緒に読むと、幸福を一つの条件だけで説明することが難しいと分かります。
他者とのつながりがあっても、何へ向かって生きるのか分からなければ虚しさを感じることがあります。人生に意味を感じていても、他者との関係に苦しむことがあります。そして、意味を求めること自体が、世界から完全な答えを得られるとは限りません。
だから幸福とは、一つの条件を満たした瞬間に完成するものではなく、他者、意味、そして人生そのものとの関係の中で考え続けるものなのかもしれません。
まとめ|幸せとは「すべてが満たされた状態」なのか?
「幸せになりたい」と思うと、足りないものを探し始めます。もっとお金があれば、もっと評価されれば、理想の恋人がいれば、好きな仕事ができれば、もっと自由になれば幸せになれる。もちろん、それらが人生を良くすることはあります。
しかし、アドラー・フランクル・カミュを並べると、「何かが足りないから不幸で、それを手に入れれば幸福が完成する」という考え方だけでは捉えきれないものが見えてきます。
アドラーからは、他者との競争だけで自分の価値を測るのではなく、他者を仲間として感じ、自分も人生へ参加していくという方向が見えてきます。幸福は「人より上になること」だけではなく、「自分にも居場所がある」と感じられることと関係します。
フランクルからは、幸福そのものを追いかけることから少し離れ、仕事、人、経験、価値など、自分を超えた何かへ向かうことが見えてきます。「私は幸せだろうか」と自分だけを見続けるのではなく、「今の自分には何ができるだろう」と問いを外へ向けるのです。
そしてカミュからは、人生に最終的な答えが保証されていなくても、それだけで現在の生が無価値になるわけではないことを考えられます。すべての謎が解ける日を待たなくても、私たちは今日を生きることができます。
アドラーは「誰と生きるか」、フランクルは「何へ向かって生きるか」、カミュは「答えがなくても生きられるか」を私たちに問いかけます。
幸福とは、毎日楽しいことでも、悩みが一つもないことでもないのかもしれません。人とつながっていても孤独な日はあります。意味あることへ向かっていても迷う日はあります。人生を肯定したいと思っていても、何もかも嫌になる日はあります。
それでも、誰かと関わり、何かへ向かい、今日という一日を生きることはできます。
「どうすれば幸せになれる?」という問いの前に、「自分はどんな人生を幸せと呼びたい?」と考えてみる。
人より上である人生でしょうか。誰かに「幸せそう」と思われる人生でしょうか。それとも、自分なりのつながりがあり、大切にしたいものへ向かい、答えの分からない日も含めて生きていける人生でしょうか。
幸せについて考えることは、正しい答えを一つ覚えることではありません。自分がこれまで当たり前だと思っていた「幸福の基準」を、もう一度自分自身に問い返すことです。
「幸せになってから人生を生きる」のではなく、「この人生をどう生きるかを考える中で、幸せについても考えていく」。
アドラー・フランクル・カミュという異なる3人を一緒に読む面白さは、幸福について一つの正解を与えてくれることではなく、私たちが普段使っている「幸せ」という言葉を、もう一度考え直させてくれるところにあります。
そして、その問いを仕事、人間関係、恋愛、休日、何気ない日常へ持ち帰ってみる。
そこから、哲学は「昔の思想家について学ぶもの」ではなく、自分自身の人生について考えるためのものになっていきます。
「哲学を学ぶことを、もっと日常に。」